期待される人になるには
半月ほど前に、東京ビルボードで行われたsalyuのライブに行ってきた。
ビルボードという小さな箱でのライブだからきっと、アコースティック中心でsalyu特有の“雲の切れ間のような声”をふんだんに聞けるんだろうと胸踊らせていたのだが、思い切り期待を裏切られる結果となった(もちろんいい意味で)。
ビート中心の編成、サンプラーを触りながら歌うなど、今までのsalyuのライブでは考えられなかった展開に、驚きとともに「攻めてるなぁ」と嬉しくなった。(久々だったので「最近はこうだよ」だったらすいません)
後半のMCでsalyuは「新しい挑戦で、緊張して寝れなかったの」とはにかみながら話していて、キャリアを積んでもなお、新しいことに挑戦するその姿勢に泣きそうになるくらいこみ上げるものがあった。
ゆでガエル理論
ゆでガエル理論というものがある。
熱湯にカエルを放り込むと、突然の熱さに命の危険を感じるため、すぐに飛び出すので死ぬことはないけれど、常温の水に入れてから徐々に熱すると、温度変化に慣れ、心地よさから命の危険に気付かずにそのまま茹で上がって死んでしまうという、よく組織論などで耳にする教訓のことだ。
salyuの言葉を受けて数週間が経ち、ふとこのたとえ話が頭に浮かんだ。
人はとかく肩書きとか役割を与えられると、求められている(と思っている)自分の像に自ら進んで引っ張られることがある。
はじめのうちは新鮮さもあって充実を味わえるのだが、慣れてくるとだんだんと「置きにいく」ことが増えてくる。
そうこうしているうちにだんだんと足が動かなくなり、新しいことに挑戦ができなくなっていって…その後はよくある話だ。
他人からの期待と自分への期待の天秤
それでも挑戦をする人がいる。
なんでだろうと考えたのだけど、ひとつ分かったのは、人からかけられている期待と自分自身にかける期待の両方をしっかり天秤にかけられているかどうかなのかなぁと。
「こうあってほしい」と期待されていると感じるのは大抵自身の思い込みによるところが多い。
その思い込みの裏にあるのは、たとえば「現状維持」したいという甘えだっり「信頼毀損」という恐怖がある。
ただ、当たり前だけど人が人に期待するのは、その期待される人自身が、自分の可能性に期待していて、理想や目標に向けてひた走る熱量を持っていて、そこに共鳴を感じたり自身を投影したくなるからだ。と僕は思う。
人からの期待と自分への期待。
このふたつを付かず離れず感じていることが挑戦への足掛かりになるのかもしれない。難しいことだけど。
ぼくらは いつも いつもTHE RAIN/salyu
ひとつでいたい 離れていたい
光と影のように 夜と朝の 隙間あたり
それではまた、明日から。
Takapi