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声に出したい谷川俊太郎

by Takapi
写真って撮った瞬間に過去になるのがいい。
「写真」

谷川俊太郎さんが好きです。

元々いくつかの詩は子供の頃から目にしてはいた。
大人になり『ひとり暮らし』(新潮社)というエッセイを読んで魅力にとりつかれ、それからは詩集などをいくつか読み、今でも書店で知らないものがあれば買う、ということをしている(それでもまだ見ていないものもたくさんある)。

谷川俊太郎さんの詩や言葉に触れるとなぜだか、初夏のむっとする青葉の匂いと晩秋の落ち葉を踏む音が頭の中でぐちゃぐちゃってなるような、それでいて下っ腹がムズムズするような、そんな感覚にはまる。
乱暴に言えば馬鹿馬鹿しいくらいに「生」を感じるのだ。

念のためにいうが、私は決してけちな自己表現のために、言葉を探すのではない。人々との唯一のつながりの途として言葉を探すのである。
「二十億光年の孤独」

つながり、人と人。体温と体温。
紙の上に印刷されたただの言葉が、表現の枠を超えて、人のもつ温さと冷たさと強さと脆さと危うさを一緒くたにして、斜め後ろから言葉をかけられるような息の湿っ気まで感じさせる。
それが谷川俊太郎さんの言葉。

だからなのかわからないけれど、谷川俊太郎さんの詩は読むというより声に出したい気持ちになる。
いくつか並べるのでできれば声に出して読んでみてほしい。

どこで買ったのか、いつ買ったのか、誰と一緒だったのか、記憶はどんどん朧になる。でもこの「物」がいまここにあることが快い。物は確かな手触りで、思い出を手放すことをおしえてくれる。
『写真』/21
ほめたたえるために生れてきたのだ
ののしるために生れてきたのではない
否定するために生れてきたのではない
肯定するために生れてきたのだ

無のために生れてきたのではない
あらゆるもののために生れてきたのだ
歌うために生れてきたのだ
説教するために生れてきたのではない

死ぬために生れてきたのではない
生きるために生れてきたのだ
そうなのだ 私は男で
夫で父でおまけに詩人でさえあるのだから
「冬に」
ほほえむことができぬから
青空は雲を浮べる
ほほえむことができぬから
木は風にそよぐ

ほほえむことができぬから
犬は尾をふり-だが人は
ほほえむことができるのに
時としてほほえみを忘れ

ほほえむことができるから
ほほえみで人をあざむく
「ほほえみ 」
人間とは常に人間になりつつある存在だ
かつて教えられたその言葉が
しこりのように胸の奥に残っている
成人とは人に成ること もしそうなら
私たちはみな日々成人の日を生きている

完全な人間はどこにもいない
人間とは何かを知りつくしている者もいない
だからみな問いかけるのだ
人間とはいったい何かを
そしてみな答えているのだ その問いに
毎日のささやかな行動で

人は人を傷つける 人は人を慰める
人は人を怖れ 人は人を求める
子どもとおとなの区別がどこにあるのか
子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな
おとなは一生大きな子ども

どんな美しい記念の晴着も
どんな華やかなお祝いの花束も
それだけではきみをおとなにはしてくれない
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み直しつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終わらないおとなへの出発点

人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ
「成人の日に」

個人的に好きな詩を並べ、改めて自分で読み返してみて気付いたのだけれど、谷川俊太郎さんの言葉には、読んだ人の視点を外に向けさせるような働きがあるなぁと。

公園の深みを増す緑、ごみ収集場にある積み重なった段ボール、マンションのベランダで洗濯物を干す時のハンガーをかける音、雨上がりの匂い、夏の雨が降る予感のする生ぬるい中にあるひやりとする風、舌に触れる深煎りのコーヒーの苦味…五感で感じ、それに伴って(おそらく)生まれている言葉、でもいつもは流れていき気付くことのない言葉の奔流が、少しだけ身体の中に留まり顕れる感覚。

谷川俊太郎さんの言葉は日常の何気ない、普段なら通り過ぎてしまうシーンを立ち止まらせ、言葉を探させる。

たぶん現代人(大袈裟な括りだ)は心のどこかでは、世の中と併走している自分の速度と、本来身体にフィットする速度のバランスを取りたいと思っている。でもそれがなかなかうまくいかないのだけれど、そんなバランスをとる装置として谷川俊太郎さんの言葉があり、なかば本能的に求めているのかも知れないなぁと、なんのまとまりもなくふんわりと思った。

それではまた、明日から。

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