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「足るを知る」ことを棄てる

by Takapi

2016年を振り返り、一度だけ、「死ぬかもな」と思った瞬間がある。

それは鳥取県の三朝町にある「三徳山三佛寺投入堂」通称「投入堂」に参拝をしに行った時だ。
山の断崖の窪みに建つこちらに行くには「修行」として入山するのだが、兎に角その道程が恐ろしい。

投入堂への一般の入山は禁止されている。三仏寺裏手にある登山道を辿って近くまで行くことは可能だが(投入堂への道参照)、「世界一危険な国宝」と称されるほど危険であり、死亡事故も多発している
wikipedia

「六根清浄」と書かれた襷をかけ、普通の運動靴は危険ということで脱がされ、代わりに慣れない草履を履かされ、落ちないことだけを考え、つまりは死なないことだけを考えて、投入堂を目指す。
(因みに草履のグリップ力はすごいです。どんなすべり止めのある靴よりも滑らない。)

道とは到底呼べないような山道を、自分の足とぶらさがるロープだけを頼りに登り切り、投入堂を拝んだ後、達成感と充足感いっぱいで下山する中、同行してくれた住職の方が語ってくれた言葉が今回のテーマだ。

「聖なる不浄」について

生命の危機を乗り越えた興奮なのか、若干高揚して
「なんだかスッキリします。浄化された気分です」
と話しかけた僕に住職さんは、よく通り、それでいて柔らかい声でこう返した。
「素晴らしいことです。でも気を付けてください。それは“聖なる不浄”とも言うんですよ。」

聖なる不浄、それは、欲にまみれず良い行いをした自分を偉いんだと錯覚してしまうこと。

つまり、修行して欲を削ぎ落とし、「足るを知る」という心境になることが実は、自分は他者よりも高みにいると無意識のうちに思い込んでしまうという、これまた厄介な欲を芽生えさせてしまうのだと言う。

住職さんは
「だからね。なんでも突き詰めちゃいけないんです。少し修業したら思いっ切り俗世にまみれる。
酒もいっぱい飲んで良いんです。それが人間らしいということなんです。バランスなんですよ。

と教えてくれた。

「足るを知る」だけでは足りない

「足るを知る」という言葉は、身分相応に満足することが生活を豊かにするという意味であり、取り分け最近持ち上げられる「生き方」をしている人に共通するキャッチフレーズであるように思う。

僕はこの言葉は理想的であると思う反面、無理難題であるようにも思う。
それだけ欲というのは粘着質であるし、(誰かに認められたいしモテたいし)「足るを知る」生き方を“地”でできるのはやはりごく一部の人なのだ。
乱暴なことを言えば「足るを知る」(とされる)人は足るだけの充足があった人であり、その人たちに憧憬を抱かせ、美徳という都合の良い餌を与えることで、「知らない」人に我慢を強い、結果として余計に格差が生まれているような気さえするのだ。

欲に忠実になれる場所をもつ

今の生活に必要なのは「足るを知る」ことではなくて、「足りないことを知った上で、自分の欲に忠実になれる場所を持つこと」なんだと思う。

まずは自分の欲に耳を傾けること。何が好きで何をしている自分が楽しいと感じるのかを知ること。

それがまだ分からなければ、普段自分が背負っている肩書を外した場所に身を置くことから始めることだと思う。

趣味のグループに入ることでも良い。近所の酒場に顔を出して見ず知らずの人と話すことでも良いと思う。
そしてこれが肝心なんだけど、そこはとびきり心地が良くて楽しい場所でなくてはならない。
頭よりも身体性を優先できるような場所が良い。

そういう場所はとっくに出来始めているし、それを作り出しているのもインターネットだ。

もっと入りやすい場所を作っていくこと。
もっと欲を満たせる場所を作っていくこと。

それがインターネットの仕事に身を置いている自分の役割でもあり、あと数年かけてやっていきたいことのひとつでもある。

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