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吉祥寺「横尾」の閉店とマッチョ化する街について

by Takapi
「デートで御飯を食べたあとで、女の子は自分で勘定書をつかんでレジで金を払ったりしちゃいけない。男にまず払わせて、あとで返す。それが世間のマナーなんだ。男としてのプライドを傷つける。僕はもちろん傷つかない。僕はどのような観点から見てもマッチョな人間じゃないから。でも僕はいいけど、気にする男も世間にはけっこう沢山いる。世界はまだまだマッチョなんだ
村上春樹著「ダンス・ダンス・ダンス(下)P.12 」

「横尾」の閉店と寂しさの源泉

吉祥寺のカフェ「横尾」が2016年8月31日に閉店した。

閉店の報せを受け取ったのは、とある方のInstagramの投稿で、閉店の約2週間前のこと。
その時に言いようのない寂しさが襲ってきて、閉店する最後の週末の土曜日、つまり8月27日に行ってきた。

横尾の歴史は11年。
ちょうど僕の社会人人生と同い年だったらしい。確かに社会人になってすぐの頃、吉祥寺をプラッと歩いていた時に知ったような気もする。

深酒の荒れた胃腸を優しく労わってくれた土曜の昼のお食事。
空風吹く晩秋に指先から気持ちまで温かくしてくれた夕暮れ時のカフェオレ。

僕と同じように、横尾に来る人たちは自分たちだけの思い出が静かに横たわっているのだろう。
その思い出をこぼさず拾うように、慈しむように、閉店が決まってから行列が絶えなかったらしい。

思い出は消えないと分かっていても、付随する場所がなくなることはやはり圧倒的に寂しい。それでも僕が感じた寂しさはそれだけではないような気がしていた。

この寂しさの源泉は何なのか、それを最後の横尾訪問から1週間経って改めて考えてみて、冒頭の村上春樹の小説の一節が浮かんだのだ。

どうやら、吉祥寺がマッチョな街になった(なってきた)ということに寂しさを感じているらしい。

街がマッチョ化するということ

正直マッチョ化するということを明確に言語化できないし、それがなぜ寂しさを覚えさせるのかははっきりと僕のなかで解釈できていない。

ただ、ここ数年の吉祥寺の街の変化を一言でいえば「マッチョになってきた」ということなんだと思う。そしてそのマッチョになってきた吉祥寺を見て、僕は違和を感じていたし、今回の横尾の閉店によって、マッチョではなかった頃の吉祥寺の面影が消えていくような予感がしたのだと思う。

マッチョ化するということでひとつだけわかることは「晒されることを受け入れる」ということだ。
それはつまり、誰かのためだけではいられなくなるということ。

街は、経済活動を主たる業としている以上大きくせざるを得ない。
そして大きくするということは間口を広げるということだ。

結果として、通りすがりの人が増えることになる。
通りすがりの人が増えれば、街が受ける視線は変わり始める。

それは「試される視線」への変化だ。
そして街自身もその視線に対抗するために強くなろうとしていく。
強くなるためには厳しくならざるをえない。厳しくなるということはつまり、少数を切っていく、ということだ

この視線と街の変化こそが僕がここ数年吉祥寺に感じていた違和なんだと思うし、「もう僕のための街ではなくなった」という諦めにも似た感情が寂しさの正体なんだと思う。
我儘な感情であることは間違いないけれど。

ただ、ひとつだけ決定的に分かっていることは、一度広げた街はもう元には戻らないということだ。
新しい筋肉をつけ、体が大きくなったことで、着ていた服は伸びることなる。

これからずっと筋肉を維持し、パンパンになった服を着こなしていくのか、それともどこかで体力がなくなり、筋肉が落ち、首元がだるだるのTシャツのようになってしまうのか、それはおそらくもう何年も、もしかしたら何十年と経たないと分からないのかもしれない。

井の頭公園は、今日も変わらず平等に開いていて、集まる人たちの憩いの場になっている。
何年先まで同じ風景があるか分からないけれど、僕はこれからも寂しさを小脇に抱えつつも、吉祥寺に来ることになるのだと思う。

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